自分が高校生の頃、札幌から女性の英語教師が赴任してきました。恐らく20代の後半くらいだったと思います。今の自分くらいの年齢になれば、知り合いもほとんどいない土地への赴任ということで、かなりのストレスだったんだろうな…と同情的な気持ちになります。しかし、当時の自分を含めて、高校生には教師の立場や事情まで考えられるような配慮も余裕もありませんでした。
結果からいえば、双方にとって非常に残念なことになりました。その英語の先生と高校生との距離は埋まることはありませんでした。というより、交流するほど溝は深くなっていきました。あれほどまでお互いに不信感を抱いた、教師・生徒の関係はありませんでした。実際、その先生に英語を教わった実感はまったくありません。周囲も同様だったと思います。
では、なぜそこまでお互いに不信感を抱くことになってしまったのでしょうか。これは双方に原因があっての不幸の相乗効果だった…といえば、何となく理解できるような気になりますが、実際の原因は全くシンプルなものでした。その先生は、日常的に批判や文句ばかり言っていたのです。たとえば「よくこんな遊ぶところもないところにいられるね」「自分の育った札幌には○○という場所があって…」「こんな田舎だったら英語なんて習っても意味ないよね」など、とにかく否定ばかり言っていたことを覚えています。
その土地しか知らない自分としては、そんなものなのかな…程度にしか思っていませんでしたが、少なくとも、自分の生まれ育った土地に文句ばかり言っている教師に好感を抱く生徒はいません。日頃から否定的な発言ばかりしていることによって、ますます生徒からの距離が遠くなって、さらに否定的な態度が強化されていったのではないかと思います。結局、その先生は、1年ちょっとでどこかに異動していきました。
この思い出話から伝えたいことは、日頃から否定や文句ばかり言っている人は、自分自身で、さらに否定や文句が必要な世界を作り上げているということです。
実は、これは自分自身にも思い当たる節があります。東京から仙台を経由して現在の所属先に赴任してきたときは、よく「東京だったら…」とか「仙台だったら…」とか文句や不満ばかり言っていました。もし当時の自分に会うことができるなら、その幼稚な考えを改めるように、少なくとも口に出さないようにと、言い聞かせたいです。
どの場所にも、良い面もあれば悪い面もあるものです。少しの期間で判断せずに、長い目で見ること・じっくり取り組むことが大切だと思います。そして、もし本当に合わない土地だったとしても、それを普段から口にする必要はありません。そうすることで、余計に居場所がなくなるものです。
特に、教師という立場であればなおさらのこと、何でも否定するようなスタンスは避けなければならないと思うのです。否定や文句を、建設的な意見に変えるような考え方が必要と思います。
統計を勉強する人は、大きく二つに分かれます。一方は、統計処理の方法をより洗練させようと思う人。つまりは統計研究者です。そして、もう一方は、他の目的(社会調査など)のために、統計の使い方を知りたい人。つまり、道具として統計を使う人です。もちろん、自分は調査・実験のために統計を使っているので、完璧に後者に当てはまります。
ここで「統計」という抽象的な概念を持ち出すから、話が複雑になるのです。ここでコンパスの例を引き合いに出すことにしました。もし「より簡単に正確な円を描けるコンパスを作りたい」と思うなら、コンパスそのものを研究する必要があります。一方「コンパスそのものには興味はなくて、ただ円が描く必要がある」という人もいます。自分の授業は、徹底的に後者のスタンスに徹するつもり…ということを伝えたいわけなんです。
っていうか、文章にすると結構ややこしいことがわかりました。さてどうしたものか…。
